「何それ。」
「分からん。なんか奏様がコンパで貰ったらしく、いいものだから俺にくれる…、て…」
「…?」
不自然に言葉を切った雪に、何事かと時雨が顔を覗かせた先。
ガサガサと雪が開いた包みの中で、まず際どいピンクがその存在を主張していた。やたらとポップな字体で描かれた、今にもハートが乱舞しそうな『YES』の文字が目に刺さる。
「「……。」」
【嫌よ嫌よも……?】
───…〜♪ 〜♪ 〜…ポンッ
「ん…?ふあぁ〜い、なぁに?雪」
『なぁに?じゃありませんよ奏様! 何なんですかこの枕。』
「何…ってああ、イエスノー枕よ。アンタそんなのも知らないの?」
『そういう事ではなくてですね… 』
「何よー、この私が親切心であげるっつってんのに。まさか、いらないとは言わないわよね?」
『…ご自分じゃ使い所がないもんだから俺に回しただけでしょうに。』
「ハァ゛ン!? ちょっと雪、もっぺん言ってごらんなさ
『それよりも声。…随分と酒焼けしておいでですよ。お酒はその辺で。ちゃんと水分も摂ってください。明日の業務に差し支えなきよう。それから!寝る時には絶対に服を脱がないこと!…それでは夜分に失礼しました。おやすみなさい。良い夢を。』
「あ、ちょ、ゆ」
ツー…ツー…ツー…
「ったくあの人は…」
「…凄い会話。」
スマホを切り、盛大なため息を吐いた雪は眼下の枕を見下ろし、またガシガシと頭を掻き、抱える。
「どうするの?それ。」
「突っ返してえ。」
「そういうわけにもいかないでしょ。」
「てかこんなのほんとにあるんだな。」
「雪、こういうの知ってたんだね。」
「…奏様といいお前といい、俺をなんだと思ってんだ。」
「…、生娘?」
「ぶっ殺すぞ。」
「まあ、それはそれとしてさ、用途が分かってるなら話は早いね。」
「あ?」
「折角貰ったんだし、さ。どう? 一回くらい使ってみ
「使うか阿呆。」
バフっ!
視界いっぱいに映り飛んできた『NO』を顔面で受け、時雨はまだ枕がそこそこに柔らかい低反発素材であったことに感謝した。
「くだんねーこと言ってないでさっさと風呂入ってとっとと寝ろ。」
悪し様に部屋を追い出された時雨がシャワーを浴びに出ている間、先に寝支度を済ませた雪が部屋に戻ると、部屋に入ってすぐの所でうっかり枕を踏みそうになった。
時雨に投げつけたまま、無造作に床に転がされたそれは『YES』が上にきてしまっていて、雪は「げ」と眉根を寄せる。
無視してしまいたいがそういうわけにもいかない。
仮にも寝具を床の上に置いたままにしておくのは気がひけたし、何よりその枕のその“面”を、そのまま晒しておくにはどうにも耐え難いものがあった。
雪はそれを渋々拾い上げ、布団の上へと放る。適当に転がしたせいでまた『YES』が表に来てしまい、雪は思わず舌打ちを零した。
おいふざけんなよ、こんなん布団の上に置いといたらあの万年発情期がどうなるか分かったもんじゃねぇ、襲ってくださいと言わんばかりだろ、『NO』だ『NO』、こんなもん、俺は今日はもう寝るんだからな。
そう思い、枕をべしと反転させる。当然枕は『NO』になり、それで漸く気は済んだ。かに、思えたのだが…
「……」
表側とうって変わり、青い文字ではっきりと、『NO』と書かれたそれに、雪はぐぅ…と喉奥で唸る。
いや『NO』は『NO』だ。勿論そのつもりで返した。何も間違いはない。のだが…
…あいつ変なとこで繊細っつーか、結構気にしいなとこあるからな。これで変にジメジメされても困る…し、うざってぇ。
「…別に」
なにも俺は、あいつを傷つけたいわけじゃ…
───…その時、
「!」
パタン、と脱衣所の戸が閉まる音に、雪の心臓が跳ね上がった。
「───…あれ、」
そこからするりと部屋の襖が開くまで僅か五秒。
咄嗟に部屋の明かりを消し、掴みかけてた枕ごと自分の体を布団に捩じ込み、狸寝入りを決め込んだ雪に、時雨は首を傾げた。
「雪、もう寝ちゃった?」
「……」
小声で聞くも返事はない。
動く気配もない背中に、まあ寝るって言ってたもんなぁ、と肩を落とす時雨の思いとは裏腹に、雪は固く目を瞑り、布団の中で一人密かに焦っていた。
思わず寝たフリをキメてしまったことに、何をやってるんだ自分は…と思うも、今更取り繕うことなど出来はしない。土壇場で電気消したの、バレなかったろうか。いや、もう寧ろ寝てると思ってくれた方が好都合。俺はもう寝た。さあはよ出てけ。
やがて、そっと静かに襖が閉まり、廊下から僅かに差し込んでいた光も遮断される。時雨が出ていったことを知り、ほっと雪が息を吐き、なんとなく張り詰めていた緊張を解き、寝返りを打とうとしたその時。
布団がめくれる気配に、自分のものではない体温が、肩に触れた感触に…
「! なんで入ってきてんだよ!?」
思わず身を起こし布団を剥ぐと、時雨が大きく見開いた目を、ぱちぱちと驚いたように瞬かせる。
「なんだ、起きてたの。」
「起きたんだよ!今!」
嘘だ。
「自分の部屋戻れよ。」
「ほんとにもう寝るの?」
「寝る。」
「今日ちょっと寒くない?」
「ない。」
「一人寝は寂しいよ。」
「あっちじゃいつも一人のくせに今更何言ってんだよ。」
「それはそれ…」
するとそこで、自分も起き上がり不意に視線を落とした時雨は、布団が捲られたことによって姿を現した、雪の手元の“それ”に気づいた。
そう、気づいてしまった。
雪の私室は和室だ。時雨のところと違い、畳があって、寝具は布団で、障子がある。仮にも寝室なので紙は厚く遮光性のあるものを使用しているが、それでも障子はカーテンと違う。余程の暗雲か、雪の降らない真冬か、はたまた新月の夜でもない限り、この部屋を完全な暗闇が満たすことはないだろう。
だからこそ雪は、自分の部屋でそういうコトに及ぶのを断固として拒否するし、逆に言えば、そそくさと自室に向かう日は、『今日はやらんぞ』と、そういう暗黙の意思表示でもあったのだが…
暗がりでぼんやりと輪郭を見せる“それ”に、時雨がじっと目を凝らす。目の前で急にむむ…と目を細めた時雨に、雪は一瞬疑問符を浮かべ、そして
「!」
「いたっ!」
ハッとした雪にべちん!といきなり顔面を叩かれ時雨が悶絶。その隙に光の速さで後ろ手にそれを隠した雪に、時雨はもう何が何やらといった具合だったが、それでも朧気ながら見たそれを見て見ぬふり出来るほど、時雨は決して甘くなかった。
「雪、それ」
「違う!」
「ピンク…」
「っ、それはっ、たまたまこっちが表になってただけで…っ」
暗がりに裸眼でハッキリ見えたわけではないが、やはりアレは例の枕だったのだろう。…正直なところをいうならば、時雨は完全にその存在を忘れていた。
雪がどういうつもりでそれを抱いて布団に潜っていたかなんて、時雨には知る由もないが(まあ恐らく断じて甘いお誘いなどの意図はなく、単純にそのまま放置しておくのが偲びなかったとか、はたまた触ってみたら案外抱き心地がよかったとか、そんな類いの理由だとは思うけれど)あの慌てぶりから考えると、さっきのももしかして狸寝入りだったのかもしれない。
「ほら、あれだ、デザインはこんなだが、枕としては、意外に感触がよくてだな…」
あせあせと聞いてもいない弁解を列ねていく雪は、きっと自分じゃ気づいてない。
理由はどうあれ、枕ひとつでこんな風に、あれやこれやと振り回されて…
「だから断じて深い意味は」
…そんなの、
『意識してます』って
言ってるようなものなのに───。
「…で?」
「え」
「とどのつまり、今日はイエス? オア ノー?」
「! な…っ」
ばっ、と雪の顔が羞恥に染まる。いや、なんならもうずっと、雪は恥ずかしさと気まずさでいっぱいいっぱいになっていたのだが。そんな雪とは対照的に時雨はなんの恥ずかしげもなく、雪に正面切って問いかける。
「イエス?」
「ちょ、ちょっと待て、今日はもう寝るって言った…」
「そのつもりだったけど気が変わった。」
「はぁ?」
じり、と詰め寄る時雨に、なんだ、いつの間にそんな気になった、どこにそんな要素あった、とたじろぐ雪が、自分の後ろ手に隠した枕にちらと目をやり、歯噛みする。やっぱりこれのせいか、と後悔したところで後の祭り。しかし時雨は、そんな雪の心を読んだかのように「違うよ」と笑って
「別にそんな枕関係なく、さ」
そ、と時雨の指先が、雪の指先へと触れる。突然の接触に一瞬ぴくりと指先を浮かせた雪だったが、その手は逃げたりすることもなく、それに気を良くしたかのように、時雨は更にその手に自分の手を重ねる。
「俺はいつだって雪に触れたいと思うし、雪は、雪なりのやり方でそれに応えてくれれば、俺はそれだけで嬉しいんだけど…」
「…? 俺なり、の…?」
「うん、」
時雨の言わんとしてる事の意味をいまいち理解出来ない雪が顔を上げると、時雨の手が、雪の頬を静かにとった。自分の体が引き寄せられる感覚に、雪が、あ、と息を呑むのも束の間、
塞がられた唇に、その目が大きく見開かれる。
「っ…」
見開かれた瞳はすぐさまぎゅっ…と閉じられて、空いた方の手が、咄嗟に手元の枕を強く掴む。
──…口唇と口唇が、重なるだけのキスだった。
数秒の後、すぐにしっとりとした感触は唇から離れ、ぐっと身体を強ばらせていた雪は「…?」と恐る恐る目を開ける。
薄目を開けるとそこには、へら、と破顔した時雨の顔があった。
「な、なに笑ってんだテメェ…」
「え、俺笑ってた?」
「自覚ねぇんか。」
「それを言うなら雪だって」
「あ?」
「……いや、」
なんでもない、とほくそ笑む時雨を、雪が不満げに睨みつけて、
なんだよ、言えよ、なんでもないって、気になんだろうが、自覚がないならいいんじゃない?と暫しの問答を繰り広げたが、話を逸らす為か、或いは“続き”を待てなくなったのか、時雨が再び雪にキスをして、
抵抗とも呼べぬ抵抗の末、結局今宵も、言葉の上のイエス、ノーなど関係なく、
氷川雪という男は、守山時雨に流されるのだ。
────…
「…っ、ね、雪…、…顔、見たい」
「──っ、…っ」
耳元でそんなことを甘くねだられ、雪は歯を食いしばってぶんぶんと首を横に振った。
普段の行為でだって顔を見られるのは御免だっていうのに、ここじゃ尚のこと。普段事に及んでいる時雨の部屋より、やはりこの部屋は外の明かりが差し込み僅かに明るい。そうじゃなくたって、普段からこういう時の自分の顔を見られるのを酷く嫌がるのが雪だ。いつにも増して顔を隠したがるのは当然のことで、…視界がいつもより良好な分、いつにも増して時雨が雪の顔を見たがるのも、また無理からぬことだった。
…しかしどうだろう。
口から零れ出そうな声をも殺し、息苦しさに喘ぐ彼は、きっとまた自分じゃ気づいてない。
自分の顔を隠すべく、自ら押し付け、意地でも離すまいとする“ソレ”を。
「…ねぇ、…苦しくない? それ」
さら、と時雨がその布地を撫でれば、取られると思ったのか、雪がそれを掴む手に力を込める。
前戯の最中、気づけばいつの間にか雪の手の内にあったそれは、きっと本人が、藁にも縋る思いで無意識に手繰り寄せたものなのだろう。
やり場のない熱を逃がすように、自分のあられもない顔を見られないように。ぎゅうぅ、と強く抱きしめる様は殊更いじらしく、更に言えば、まるでこの行為を肯定するかのように、全面に押し出されたアンバランスなピンクのポップに、時雨はぐ、と喉をならし
…なるほど悪くないな
と思った。
いい加減コロナ収束してくれ…