「ほんとにさ、何度も言ってるけど雪は無防備過ぎる。相手が俺だからいいようなものを。他人にはもっと警戒心持って。軽率な行動とらないで。特にお酒入っ」
「っだー、うるっせー!お前こそ何度言わせる気だ。俺は男だぞ。んな女みてーな用心いるか。」
「男だとか女の話じゃなくて…」
「俺をどうこうしようなんて物好きはお前くらいだ。」
「そうじゃないから言ってるのに。どうして自分のことになるとそんな鈍いの。」
「お前が変に勘ぐり過ぎなんだよ。」
「そんなことない。」
「ある。」
「わからず屋。」
「あ゛?」
子供のような喧嘩をした。
据わった瞳が相手を映す。
“子供のような喧嘩”はあくまで“ような”であって子供じゃない。大人の喧嘩で厄介なのは、アルコールという魔物が意地を固める助けをする。
「…ちょっと、どこ行くの。」
「外で飲み直す。」
「こんな時間に?」
「酒を不味くしたのは誰だよ。」
「っ」
「ちったぁ頭冷やせバカ」
ついてくんなと釘を刺され、ピシャリ閉まった戸に、時雨は力なく肩を落とした。
外はすっかり闇に包まれ、あと一時間もしないうちに時計の針が頂点を指す。既にしこたま酒を煽ったというのに、今からひとりでどこへ行くと
「あー…、もう、まったくほんと」
分かってない。
【ミカエルの逆鱗】
「ったくほんと分かんねーヤツ!」
瞬く間に空となったグラスが、勢いよくカウンターテーブルを叩いた。
「なぁマスター、俺ってひ弱そうに見えるか?」
「…いいえ? 細身ではあると思いますが、むしろ精悍な印象を受けますよ。」
「だろ?そうだよなぁ。さすがマスター、ありがとう。…それなのに」
アイツときたら。
と再び歯噛みした常連客に、マスター(もとい雇われ店長)は、さほど強くはないといえ先程から秒でなくなるアルコールに代わり、空いたグラスへすかさずミネラルウォーターを注いだ。
「お連れさんと喧嘩でもしたんですか?」
「さあな。」
「おひとりとは珍しい。」
「そんなことないだろ。」
「ありますよ。少なくともこの店で、俺は一度もどちらかおひとりでというのは見たことがありません。」
「てそんな頻繁に来ないだろそもそも。」
「まあ頻繁とは言えませんが」
基本は宅飲みなのだ。
店で飲むのは月に一度あるかないか。少なからず気に入っているとはいえ、ここだって年に数回、数える程だというのに
「おふたりは、目立ちますから。」
「なんだそりゃ。」
目立ってんのはアイツだろ。と、今ここにいない男のツラを考え、雪はいつの間にか水位が戻っていたらしいグラスを傾けた。
「ん、? マスターこの酒味薄い。」
「飲みすぎて舌が麻痺してるんですよ。そろそろ水に切り替えてはいかがです?」
「いやだ、まだ飲む。」
「もう大分へべれけじゃないですか。自力で帰れます? 今日はおひとりなんですから、そんな状態じゃ危ないですよ。」
「マスターまでそんなこと言うのかよ。」
「そんなこととは?」
「そんなことはそんなこ、とっ!?」
突如身体が揺れる衝撃。飲みかけの水が顔にかかる。
雪の座っていた椅子に、誰かがぶつかったらしかった。
「!わ、大丈夫ですか?今拭くものを」
「と、わりーわりー。」
「あ、大丈夫ですよ俺は。それよりそちらの方が、ケガとか」
「あれ、アンタ」
「──?」
ぶつかった男がじろじろと送る、不躾な視線。
マスターからタオルを受け取り、顔を拭いていた雪がそれに気づくと
「へえ、今日はひとりなのか。」
男は下卑た笑いを浮かべた。
「アンタあれだろ? いつも美形の兄ちゃんとふたりで来てる」
「? はぁ…」
気の抜けた返事が口から漏れる。
酩酊状態の頭では、男が何を言わんとしてるのかサッパリ分からない。
「なに?もしかして今フリーだったりする?」
「?」
「ふーん…」
返答らしい言葉も点頭も返してはいないというのに。きょとん顔の相手を前に、ひとり納得したように笑みを浮かべる男も、どうやら相当酒に酔ってるらしかった。
「だったら今夜さ、俺とどう?」
「は?」
「ガキじゃないんだから、分かるだろ。」
「……」
「俺、結構上手いと思うんだけど」
「っ!?」
「な?」
そう言って、不意に臀へと這わされた手の感触に、雪は驚き瞠目した。
「な…っ」
「ちょっと、×××さん!」
見かねた店主が常連客の名前を呼ぶ。
「…なぁ」
そんなことなど気にしないと言わんばかりに、男の指が上へと辿り腰を掴む。
「どうよ?」
雪の全身に、これ以上ないほど鳥肌がたった。
「なぁって…っ、!?」
「どうもこうも 、失礼ですが、口説かれるなら性別と相手をお間違えですよ。」
どいつもこいつも、俺をなんだと思ってる。
募る苛立ち。回る酒に、上がる血圧。初対面の相手にあまり抱きたくはない嫌悪感に、雪は思わず男の腕を捻り上げた。
「それにもし“間違い”でなかったなら、これは立派な猥褻行為です。警察に」
「!」
「突き出されたいですか?」
「っ、な、なんだよ。」
咄嗟に男がその手を振りほどこうとする。が、パッと見それ程力を込めてるようには見えない手は、男が思い切り力を入れてもビクともしない。
それに一瞬狼狽えた男は、しかしすぐさま苛立ちに満ち満ちた目で雪を睨み、そして
「分かってんだかんな!俺は」
キレたように喚き散らした。
「お前あの美形とデキてんだろ!」
「!」
「俺は両方イケる口だけどな、そういうヤツの目から見たらすぐ分かるぜ、そういう仲のヤツぁ。」
鬼の首でも取ったように、男が口角を上げ下品に笑う。
「しかもアンタ、どう見たって“そっち”だろ。」
…『そっち』とか、『そういう』とか、
男が何を指して言っているのか分からない。し、分かりたくもないが。
他の客の視線が自分たちへと注がれる。それすらさして気にならないのは、酒のせいか、はたまた男の言葉のせいか。
いっそその口塞いでしまえたらどんなにか胸がすくだろう。と、雪が頭の端でちらと思った時
「テメェらみてーのはよぉ」
「!」
いくら引いても振り解けない手に、痺れを切らした男が身を乗り出した。
「案外ヨけりゃ、誰でもよかったりすんだろ?」
「……」
囁かれたのは、嘲笑混じりの問いかけだった。
一瞬。時が止まったかのような静寂の中、白く濁った視界に、しかし頭の中はやけに冷めきっていて
───…ぎちり、
ぶら下がった拳が、密かな音を立てた瞬間
「っぐぇ!!?」
ヒキガエルを潰したような声と共に、男の体は勢いよく後ろへと引っ込んだ。
「!」
突如遠ざかった圧迫感に、つい手を離してしまったが、目の前にいた男に代わり、その目に映った横顔は
「しぐ…」
雪のよく知るものだった。
「……。」
無言のまま。雪の方へは目もくれず、今しがた、恐らく襟か首根っこでも掴み雪から引き剥がしたであろう男に視線を投げるその顔は、雪の位置からら窺い知れない。アルコールに冒された脳を急激に身体ごと揺さぶられた男は目を回しているのか、単に力が入らないのか、動く気配はまるでない。その男に足を向け、つかつかと近づき、手を、その首元へと伸ばした時雨に
「ハウス!」
「!っ、」
ごっ、と鈍い音が、脳天を打った。
背後から落とされた手刀に、頭を押さえた時雨が振り返る。
「ハ…ってそんな、犬じゃないんだから。」
「っせぇ駄犬。」
「え、ちょ」
「帰んぞ。」
雪の手が時雨の首根っこを掴み、時雨は体をよろめかせながら引きずられるように、男の前から引き剥がされた。
え、え…と困惑しながら、雪と、それから未練がましく先程の男を見やる時雨に、雪はお構いなしにカウンター沿いをずんずん進み、店の出入口の方へと向かう。
「勘定。」
「! ま、待ってください、お釣り」
「いい、迷惑料として受け取って欲しい。…店、騒がしくして悪かったマスター。」
カラン…とふたり店を出る。
多過ぎる酒代を手に、その背を見送った店主は元凶の男を一瞥。
「──×××さん、」
そして途方に暮れた。
「全部アンタのせいですからね。…もう。」
──…
「お前のせいだぞ、ったく。」
よく分からないが濡れ衣だ。
「もう行けねーじゃねーかあの店。」
「そんなことよりあの男何。」
「気に入ってたのに。」
「…雪、それは店がだよね。」
「…顔、だいぶおっかねぇことになってんぞ。」
何怒ってんだよ、との問いかけに、時雨は頭を抱えた。
「まずなんで携帯置いてくの。」
「邪魔だったから。と言いたいとこだが普通に忘れた。」
「おかげで探すのに苦労した。」
「ついてくんなっつったろ。」
「ついては来てないよ。ちゃんと間をあけて家を出たし、それに雪、上着も持たずに家を出るから」
「この暑い時に上着なんかいるか。」
「それは酔ってるから。まだ夜は冷えるんだし、せめて持って出ないと」
「あーあーもー分かったよ、っせえなぁ。」
「ところでもう一度聞くけどあの男何。」
「知らん。」
「知らんて…」
「別に、……少し、揉めただけだ。」
その返答に、時雨の目が驚いたように見開かれた。
「揉めた? 絡まれたじゃなく?」
「ん? あぁ、」
雪が?
揉めたということは、イコール一方的なものではなかったということ。恐らく初対面であっただろう相手に、雪が怒りや苛立ちを露にするなんて…
「まあでも、今日は正直助かったかもな。」
「え、」
「お前が来てくれて。」
「……雪」
相当酔ってるな、これは。
雪がそんなことを言うなんて。もしかすると、揉めたというのも酒の席特有のものだったかもしれない、と時雨が思案を巡らせた時、
「…お前が来なかったら」
ザァ…ッ
と木々を揺らし
「俺が本気で殴ってた…」
一陣の風が、ふたりの間を吹き抜けた。
「──? 雪?」
瞬く瞳が振り返る。
「ごめん、今何か言った?」
「…いや、」
ポツリ呟いた小さな声は、無意識に出たひとりごと。
「それよりお前、責任とってあの店に代わるいい店探せよな。」
「…俺に何の責任があるのか甚だ疑問なんだけど」
「……」
「はいはい、分かったよ。」
「よし。」
荒んだ気持ちが漸く晴れる。
そう、全てはこの男のせいなのだから。
思い出したような酩酊感。ふわふわとした感覚に、それを冷ます夜風すら心地いいと、雪は思った。
「ところで雪、ほんとにあの男に何もされてない?」
「お前もほんと懲りねーヤツだな。女じゃあるまいし、男がケツ触られたくらいでそんな」
「え」
「…あ」
「…」
「…」
「…雪」
やべ。